私は「生きる」ことを選んでいる

 うちの学部でブログを書く人が増えてきた。最近ブログを始めた方が「死」についてかいていらっしゃったのでそれにある意味便乗して僕もそのテーマで書いてみようと思う。駄文ですがお付き合いください

参考までに以下に彼のnoteの該当記事を貼っておくので読んでほしい。

 
note.com

後編は編集時点では上がってないみたいです。

 

僕の経験

経験、といっても先ほどの那由多氏のような自分が死にたいと思った経験の話ではない。

よくニュースで「本日○○県xx市で殺人事件が起こりました。亡くなったのは○○県xx市の△△さんで○○県警は殺人容疑で……」というニュースを割とよく耳にすることがあるだろう。そして、よく目の当たりにするのが芸能人の死である。今年の大学に入るか入らないかの頃に大好きだったドリフターズ志村けんさんが亡くなった。テレビで毎日のように笑顔を振りまいてた岡江久美子さんもなくなった。中学の修学旅行中には割と年の近い私立恵比寿中学のメンバーが亡くなってマジかよ……となった。

明確に覚えている初めての自殺のニュースはZARD坂井泉水さんが亡くなったことだ。それ以降何人かの僕でも知っているような有名人が自殺したというニュースを聞いた。

そうそう、僕が高校に在学していた時、二個上の先輩が亡くなった。働いてた事務の職員の人も亡くなった。それで学校で学校葬的なことをした。はっきり言ってあんまりよく知らない人だったから授業時間がつぶれてラッキー程度にしか思っていなかった。

 

終わり。所詮その程度です。僕が「死」にまつわる経験をしているのは。身の回りの人が死ぬっていう経験をこれまでにしていないんです。そうです、ぼくお通夜とかお葬式とか言葉では知っているけど何やるか知りません。どんな雰囲気なのかもわかりません。この経験がないのって割と自分の中では大きいことではあります。だからそういう直接経験がない私の書く「死」について考える話って薄っぺらくなると思うんですよね。ごめんね。

純粋に「怖い」という気持ち

まず私が自分ごととして死について初めて触れたのはおそらく幼稚園の時次の本を読んだんです。

絵本 地獄――千葉県安房郡三芳村延命寺所蔵
 

 多分読んだことのある人も多いのでは?と思いますが。当時の私は漠然とこの時がいつまでも続いていつかは大人になってそのまま生きていけるものだと思っていました。

この本を読んで思ったんですね。「死ぬのは怖い」と。死んだらこんな怖い世界に放り込まれてしまうのだと。本当に怖い話ですよ。この世以外にあの世があるとは知ってましたけどあそこは極楽で楽しいんだよと聞かされてた気がします。そういえば極楽への行き方まだ聞いてねえな。いつか聞いてみたいものですわ。

とにかくここで書かれていることは悪いことをするとろくなことが待ってないということ。そんな未来が待っているのが嫌だからわざわざ悪いことをしないようにしているんですね。潜在意識の中ではあるけれど。

そして数年後、僕は「死刑」という刑罰に出会うわけです。きっかけはオウム真理教関連の裁判がすべて一旦終了したというニュースで「死刑囚」という耳慣れないワードを耳にしたことがきっかけでした。詳しく母親に聞いてみたら国によって殺されて地獄に行くらしい。地獄にはいきたくないなぁという漠然とした思いで生きているわけでした。

 好奇心と恐怖心

人間の行動ってのは理性と感情のバランスが釣り合ってできているのだとよく言います。感情でやりたいと思っていることを理性が止めることってよくあると思うんです。

その中でも僕が今現時点でも思っていることを書きます。電車に触ってみたいと割と思っています。勝手に触ればいいじゃないかと。違うんです。僕の中で持っているイメージはあくまで「ハイタッチ」のイメージです。走っている電車がホームに入線してくる。その電車に正面から触りに行く。こんなこと考える人間ってなかなかいないとは思いますがやってみたいなと正直思っています。ほかにも一回くらい電車に飛び込んでみたいとか首吊ったらどんな感じなんだろうとか思います。でもやりません。

なんでかっていうと単純に怖いからです。死ぬことに対する恐怖心があるからだと思うんです。

「死」について考えるとき

もし私がいなかったところで何かが変わるわけではないじゃないですか。代わりなんていくらでもいるし別に自分がいないから困る人っていうのはほぼいませんよね。所詮その程度の存在なわけです。だったら死んでもかまわないし多少は悲しんでもらえるかもしれないけどどうせすぐに忘れられる。その程度でしょとは思います。はっきり言って大半の人間にとって存在価値などはないわけです。だったらいつ死んでもかまわないなぁとは思うし自分の価値がないことに気づいたとき、じゃあもう死んでしまおうかとも思ったわけです。

でも怖いんですよね。そういう日に限って考えてしまうんですよね、考え始めると数日くらいは怖くて眠れなくなるんですけど。まず考えることは自分が死んだらどうなるのかということ。私たちは日々何かを考えて思って生きているわけであります。その考えをこうやってブログに書いてみたりTwitterで呟いてみたりするわけですけどそれはすべてではないし思いが違って伝わることもある。また日々必要なものから不必要なものまで大量の知識や学識を手に入れているわけです。考えてしまうんですよね「今考えていることや手に入れた知識っていうのはどこに行ってしまうんだろう、親が使ってくれたお金もすべて無駄になるのかな」って。自分は死んだことがないからそんなことがわかるはずもないし答えが出るはずもないですけど無駄なこととはわかりつつ考えてしまうのです。

ついでに今までした努力が全部水の泡に帰すのかなぁとおもうと悲しい気持ちになったりもします。何のために今まで/今生きているんだろうなと思ってしまうので

あと死ぬことは痛いのかなとか余計なことも考えてしまいます。余計なことが頭に浮かぶのはおそらく死んだことがないからでしょう。恐怖心もそこから来ているのではないのでしょうか。

でも私たちは死ぬことができません。死んだら「死」について考える機会は一切与えられることはないのです。私たちは常に死と隣り合わせでいながらその経験をするか経験せずに考えることしか許されていないという見事なまでのジレンマに陥っている。大変なことです。死んでしまえばそんなこと考えずに済むわけですが。

人に話してみたけど解決はされませんでした。まあいつかは来るから宿命として受け止めているという感じなんですかね。わかりません。

 

 結局、生きるしかない

なんだかんだ言って生きているのはおそらく「死=終わり」という方程式が頭の中に描かれているからだろう。死んでしまってはもう自分でどうにもすることができないということを自分で何となく思っているからではないだろうか。なんだかんだわだかまりを抱えつつも自分には生きることでしか欲望を実現できないし夢をかなえることに近づくことはできない。まあ夢はないんですけど。自分にとって何かをする大前提である生きることをやめることなんて到底できないということなんですよね。結局書いているうちに意味わかんない文になってしまった。ほんとに駄文で申し訳ないしこんなのを読ませて申し訳ない。でもこの行為だって生きていないとできないんだよ。いつもこのことを顕在化させるのは無理だけど時々は思いたいよね。

今日も生きててよかった!

 

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 (好きな人と夢で逢いたいね。じゃ、また)